この問題には縄文土器型式の分布範囲が参考になります。土器のスタイルは一定の分布圏に広がっています。その範囲は大体今の2〜3県くらいの広さになります。この空間範囲は、部族間で情報を共有した範囲と考えられます。例えば加曽利E式土器は、東京・神奈川・埼玉に広がり、曽利式は山梨・長野に広がっています。施文の道具も違っていて、前者は縄を転がした文様が多く、後者は半分に割った竹で文様を描きます。関東だと、縄文中期の段階で10万人弱くらい人がいるので、概ねひとつのムラには50人から100人。それが20〜30のムラが集まってひとつの部族。部族がさらにいくつか集まって、ひとつの土器型式を共有する集団になっています。さらにその集団同士で交流がある。神奈川や東京の遺跡から、違うスタイルである山梨の土器が2〜3割入っていたり、東北や東関東の土器も入っている。これらは違う地域間でのヒトの移動を反映していると考えられます。
 三鷹で出た山梨の土器の粘土を調べると、山梨の粘土ではなく、武蔵野台地辺りの粘土であることがわかる。山梨から三鷹にお嫁に来て、三鷹の粘土で自分の出身地のスタイルの土器を作るということがあったらしい。そして土器作りの世代間伝承は、お母さんが子供たちに言葉で教えていると想定されます。そしてこの分布圏は、日本列島の植物相や動物相の違いにも対応しています。西日本では照葉樹林文化。関東・中部はコナラ系やクリ、東北の方へ行くとブナが多い。植生が違うとそれに応じた生業も変わります。サケが上って来るとか来ないとか、環境の違いによって、土器の文化圏が違っている。そしてそれぞれに部族がある。そして彼らの世界観の一端は、土器文様、例えば勝坂式土器の蛇体文様、人体文様、顔面把手から、宗教的な世界観を読み取ることもできます。 (小林) 








 写真左:加曽利E1式土器(三鷹市 出山遺跡)          写真右:曽利U式土器(三鷹市 市立第五中学校遺跡)

 

 当時は一定の範囲を旅から旅の移動生活で、ひとところに一か月以上留まることはありません。しかしある程度の計画性を持っていないと、石材や動物を獲りそびれるため、移動の領域は一定に固定されていたと考えられます。その中で後期旧石器前半期の約3万年前頃には環状ブロック群という遺構があります。栃木県上林遺跡例で直径60mくらい。直径2〜3mの石器集中部(ブロック)が十数基、環状に広がって分布しています。中央にブロックがあるものと無いものがあります。北は秋田県あたりから、東海、長野県あたりまで確認されている。石器がブロック間でひんぱんに接合する状況から、円形の集落を一時的に作って集まり、道具のやりとりや、集会のようなものをしたらしい。しかしいつもこうだったわけではなく、普段は分れて暮らしている小集団が、一時的に集合することがあったらしい。その理由ですが、たまには同部族で結束したり、交流もしたくなるのかも。あるいは集団見合いの場なのかもしれません。同部族が一定の領域を共有し、タイミングを合わせて交流するようなスケジュールが組み込まれている。そんな社会であったと考えられます。(長ア)

                         図:環状ブロック復元図 上林遺跡(栃木県)
提供:佐野市教育委員会
2004 佐野市埋蔵文化財調査報告第30集
 『上林遺跡 佐野新都市開発整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査事業』より