参加者からの質問と回答

Q1 縄文人は二重まぶた、弥生人は一重。・・・・・・・・・人骨からなんでわかるの? 70代男性
事務局からの回答
 すみません。人骨からはわかりません(笑)

 一重まぶたや、平坦な顔面は、モンゴロイドの寒冷地適応の結果であると、説明されることが多いですね。最終氷期の再寒冷期(約2万数千年前)にシベリアにいた人類(モンゴロイドと呼ばれています)が、寒さに適応するための身体変化の特徴のひとつといわれており、これら北方系人類の特徴が、同じく北方系であった渡来系弥生人にも受け継がれているはずという想定です。

Q2 1,300年前の三鷹市民の特徴ってなんですか? 下連雀60代女性
事務局からの回答
 人骨からわかることは、多様な系統の要素を、この時代にすでに受け継いでいるらしいということです
 羽根沢台横穴墓9号墓の人骨のmt-DNA分析結果にみられるように、家族墓と考えられる横穴墓から、縄文的要素をもつ人骨と、渡来系弥生人の要素をもつ人骨が一緒にみつかっているということは、(彼らが血縁関係を持つかどうかは、今後検証される必要がありますが)もし血縁関係があるとすると、縄文的系統と渡来系弥生人の系統との婚姻が、現代日本人と同じように普通に行われていた社会であったのかもしれません。この仮説の検証にはY染色体や核DNA等の分析を充分に行い、さらに類例の増加を待つ必要がありますが、いずれにせよ、ひとつの横穴墓から、このような結果が出たことは重要です。

Q3 江戸時代の暮らしが、骨に与えた影響はなんですか?30代女性
事務局からの回答 
 上流社会で重んじられたしきたりが、骨を変形させた例があります

 江戸時代の上流武士階級の女性は、美しく結った髪を崩さないために、箱枕を使用していましたが、固い箱枕を日常使用し続けることで、頸部の骨が後ろに著しく湾曲している事例が確認されています。
 また同じく上流階級の女性の事例で、胸部を帯できつく締め付けることで、胸骨が曲がったり、ズレたり、歪んだりしている例がみつかっています。

Q4 三鷹市が縄文時代から安定した場所であったとする根拠は何ですか? 下連雀70代男性
事務局からの回答
根拠1 地形的に安定していたから
 三鷹市域は総じて地形的に安定していた場所だったといえます。市域全体は武蔵野面(国分寺崖線の上)かまたは立川面(国分寺崖線の下)という、武蔵野台地の安定した台地上に立地しています。(井の頭・牟礼地区には、もっと古い下末吉面が残る小さな丘状地形があります。) 武蔵野面では基盤層の上に平均6〜10mくらいの厚さで関東ローム層が堆積しており、その中を湧水や河川による小規模な谷戸状(小さな谷筋)地形が流れています。

根拠2 だから昔からヒトが住んでいた(遺跡が多い
 安定した台地と湧水環境に恵まれていた市域には、昔からヒトが住んでいました。 最も古い年代が出たのは、羽根沢台遺跡の3万4千年前の磨製石斧です。
 その後旧石器時代全時期〜縄文時代草創期〜後期中葉(約3,500年前)くらいまで、ほぼ全時期の遺跡が見つかっています。

Q5 弥生時代の土井ヶ浜出土人骨は何を意味しているのですか? 60代男性
事務局からの回答
 土井ヶ浜遺跡からは、日本で初めて弥生時代人の骨が出土しました。

 1日目の講演会では、渡来系弥生人の大量出土例として、山口県下関市の土井ヶ浜遺跡が紹介されました。
 土井ヶ浜遺跡からは、これまでに300体以上の人骨が出土している集団墓地遺跡と考えられています。昭和28年から始まった発掘調査では、弥生時代の人骨が初めて出土し、縄文人と違う弥生時代人の形質学的な特徴が知られるようになりました。土井ヶ浜遺跡からの出土人骨は、大陸から直接渡来したグループの墓を含むと考えられていますが、その後縄文的形質をもつ合葬例や、大量の再葬墓など多様な墓があることがわかり、現在も研究が進められています。

Q6 横穴墓に棺桶はなかったの?
事務局からの回答
 三鷹の横穴墓には棺桶はなかったと考えられます。
 
 横穴墓の調査では、木製の棺桶がもしあったなら、釘が出るはず(当時既に釘は存在しています。)と考え、横穴墓の床面の石敷きの間の土をふるいにかけるなどして、丹念な調査を行っています。ふるいは、細かな副葬品を捜索する意味もありますが、これまでに釘や当時の木製品など、棺桶につながるような痕跡は見つかっていません(日野市や横浜市などには木質の付着した鉄片が発見された例があります)。
 古墳時代は、世界に稀といえる、厳格で細分化された葬制システムがあったと想定されています。横穴墓という葬制を採用できる階層の中にも、棺桶の使用は認められないクラスがあったのかもしれません。
 
Q7 古墳時代は階層社会ですか?
事務局からの回答
 厳格な階層社会だったと考えられます

 日本列島の確実な階層化の萌芽は、縄文時代後期後半にみられ(特殊な墓の存在)、縄文晩期にはそれが明瞭になります。ほぼ同時に耳飾りや石製装飾品の専門の工人がいたようです。弥生時代には突出した首長墓が存在し、古墳時代には大王墓として知られるようになります。
 階層化を明瞭に裏付けるのは、墓の違いということになります。特に古墳時代の日本列島の墓へのこだわりは、世界的に見ても特殊といえるため、墓の違いが階層化の程度を直接示す可能性は高い、と考えられています。
 つまり古墳時代後期のこの地域には、天文台構内古墳、多摩川沿いの河原石石室をもつ古墳、横穴墓、一般の墓などの階層分化が進んでいた可能性があります。