■ 仙川郷と北野遺跡

  『風土記稿』によると、江戸時代の北野村、上仙川村、中仙川村、下仙川村、野川村一帯は、中世以降に仙川郷(せんかわごう)と呼ばれていた時期があることがわかります。
  中世の仙川郷を治めた領主の居住地と目されているのが、島屋敷遺跡です。島屋敷遺跡は三鷹市新川に位置し、低地に浮かぶ島状の台地を中心とし、その範囲は、138,100m³に及びます。『風土記稿』によると、近隣諸国を勢力範囲としていた中世武士団である武蔵七党の武蔵国多摩郡村山郷 (埼玉県入間川付近)に勢力をもった村山党の金子氏の屋敷が存在し、金子時光が住んでいたと記されています。天正年間(1573〜1592)には金子弾正が住んでおり、金子時光の時代以前からこの地には、荘園領主が存在したことになります。金子氏が入植した時期がどこまでさかのぼれるのか、あるいはそれ以前に、この地には別の領主による開発がすでに行われていたのかどうかは、まだ解明されていません。
  仙川郷は金子氏の知行の後、一時的に青山百人組の給地となり、その後17世紀初頭に旗本柴田氏が陣屋を構えたという記述が『風土記稿』にはあります。島屋敷の館に住んだ柴田氏は、戦国武将で著名な織田信長の重臣であった柴田勝家の孫にあたる柴田勝重です。慶長4(1599)年に徳川家康に仕え、1614(慶長19)年、1615(慶長20)年の大坂の役の戦功により、武蔵国上仙川および中仙川村および藤沢村(現入間市藤沢)内500石の領地を加増されました。ただし、元禄11(1698)年に柴田氏の三河への転封に伴い陣屋は廃止され、徳川氏の直轄領となりました。柴田氏は三代約90年に渡って、この地を知行しました。 北野村を開墾、開拓した住民が住む下仙川村は、天正18(1590)年に徳川家康に仕えた飯高主水貞政が知行地として与えられています。

北野遺跡と島屋敷遺跡の位置関係
島屋敷遺跡発掘調査状況
北野遺跡発掘調査状況

■ 出土遺物からみる仙川郷と北野遺跡

  島屋敷遺跡と同じような構成の遺物が、北野遺跡からも出土しています。これらの資料は中世、近世とも同様に、陶磁器・土器を主体としますが、商品経済の発達を反映して、石製品、金属製品、木製品等を含む、様々な構成へ変化しており、大きな特徴のひとつといえます。陶器は中世の遺物と比べると多様な産地のバラエティが増えます。焼き物は、瀬戸美濃産・信楽産が用いられますが、江戸近郊の今戸産の焙烙や灯火皿も出土します。石製品では、あきる野市近隣で産出する伊奈石を使用した石臼が目立ちます。金属製品では煙管の部品も見られ、喫煙の風習が庶民の間に根付く18世紀以降の製品と考えられます。


舶載時期 青白磁梅瓶
島屋敷遺跡出土
13世紀
台座 
島屋敷遺跡出土
中世
和鑑
島屋敷遺跡出土
中世
擂鉢(瀬戸産)
島屋敷遺跡出土
15世紀後半
天目茶碗(瀬戸美濃産)
島屋敷遺跡出土
15世紀
水注(瀬戸美濃産)
島屋敷遺跡出土
16世紀後半〜17世紀前半
天目茶碗(瀬戸美濃産)
島屋敷遺跡出土
17世紀後半〜18世紀
クワランカ碗(肥前産)
島屋敷遺跡出土 18世紀
カワラケ(在地系)
島屋敷遺跡出土
18〜19世紀
土製品
島屋敷遺跡出土
近世
土製品人形(恵比寿)
北野遺跡出土
近世
土製品(まねきねこ)
北野遺跡出土
近世
灯明皿
北野遺跡出土
近世
雁首
北野遺跡出土
近世
銭貨(寛永通宝)
北野遺跡出土
近世

■ 旧北野庚申堂跡地より出土した遺物