江戸幕府は、日本全国の郷帳(ごうちょう)を作成しています。郷帳とは、幕府が年貢を徴収するうえで、最も重要な帳簿のことです。北野村が一村として記録されるようになるのは、元禄年間に作成された『元禄郷帳』からです。北野村は元禄8(1695)年に、織田越前守信久に検地されており、『元禄郷帳』によると、北野村の石高は203石1斗3升6合(約30トン)
でした。石高は元禄8(1695) 年に行われた検地から江戸末に行われた検地までほぼ一定ですが、明治初(1867)年に行われた検地による『旧高旧領取調帳』によると、212石5斗7升6合となっており、収量の増加がみられます。
江戸幕府は江戸を中心とした全国交通網の整備に着手し、宿駅制が徐々に敷かれるようになりました。宿場が整備され、人馬の提供を義務とする宿場の助郷が生じてきます。助郷とは、宿場が常備している人足・馬の定数以上に人足や馬の需要が生じた場合、これを補い負担することです。北野村でも高井戸宿の助郷の負担が課せられており、宝永2(1705)年の助郷高は、203石でした。
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