縄文時代の草創期から前期までの急激な気候変動に適応するために、土器を用いた食料加工のバリエーションは多様なものとなりました。煮炊きなどの加熱調理に加え、蒸し加工、また土器を用いた水さらし、加熱によるあく抜き等の方法が次第に洗練されていきます。

  そして縄文時代中期に、今とあまり変わりない気候に安定してから、縄文土器の立体造形の流行は特に関東地方、中部高地、上越地区を中心に激しく燃え上がります。またその影響は全国に及んでいます。日常に使われる器に、縄文土器ほど、過度といえるまでの立体造形を加える文化は、世界を見渡しても中期縄文人だけのようです。

 そのままでは食べることができない(アクが強すぎる、消化できない、美味しくない等)動植物資源を、土器を通すことで食料に変換する。そんな土器の「象徴的機能」に着目したのはフランスの思想家レヴイ=ストロースですが、縄文人も自分たちの土器にそのような象徴的な思いを込めていたのでしょうか?

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出土遺跡:市立第五中学校遺跡
時    期:縄文時代中期
土器型式:勝坂式

 勝坂式のパネル文系の土器です。勝坂式の文様は複数種類の系統を持っており、その系統は器形と密接に関連しています。隆帯で四区分した器面を、へら書き文様で埋めています。文様は玉抱き三叉文という、縄文時代を通じて長く使われ続ける伝統的なものです。隆帯のうち二つは、ヘビまたは男女の性器を表徴している可能性のあるモチーフが造形されています。チーフが造形されています。

 

A

出土遺跡:井の頭池遺跡群A
時    期:縄文時代中期

土器型式:加曽利E式

 

 注口土器は、縄文時代前期に成立する片口土器から派生した土器と考えられています。片口土器は流水による堅果類のあく抜きの用途が想定されていますが、この土器は注ぎ口の位置(口縁部より数mmだけ注ぎ口が低い)と煮焚きの痕跡があることから、煮沸によるあく抜きのための利用の可能性も考えられます。

 

B

出土遺跡:市立第五中学校遺跡
時    期:縄文時代中期
土器型式:勝坂式

 

 土器の外周に描かれる土器はひとつながりになっていますが、勝坂式土器はアシンメトリー(左右非対称)な造作が特徴のひとつです。大きな把手とその下に配されたモチーフと、その180度反対側に配置されたモチーフは少し変えられています。器としての土器にも正面観があるのかもしれません。

 

C

出土遺跡:市立第五中学校遺跡
時    期:縄文時代中期
土器型式:勝坂式

 

 勝坂式土器に共通する「蛇」を思わせる、隆帯文によるモチーフと、口縁部に配された小さな突起がカエルを思わせるユニークな土器です。縄文人にとって蛇もカエルも身近な存在だったはずですが、このモチーフが本当に蛇とカエルなのかどうかは、縄文人にしかわかりません。小型の土器ですが内面に煮炊きに用いた痕跡があります。

 

D

出土遺跡:西谷遺跡
時    期:縄文時代中期
土器型式:曽利式

 

 平成16年に西谷遺跡の住居跡から発掘されたものを今回復元しています。縄文時代中期後半の南関東は、加曽利E式文化圏に属しますが、中部高地や神奈川北部に広がっていた曽利式土器が、南関東のひとつの村から大量に出土することもあります。この土器は曽利式の重弧文とよばれるもので、器面がまだ柔らかい時に、竹へら等を用いて複雑な文様を描いています。曽利式は縄目文様をほとんど使わない特徴があり、縄目文様を多用する加曽利E式とは、作り方も全く異なります。

 

E

出土遺跡:原遺跡
時    期:縄文時代中期
土器型式:勝坂式

 

 平成8年に原遺跡(大沢一丁目)で発掘されました。バラバラで出土していたものを、今回の展示に合わせてはじめて復元しました。三本指の人体モチーフは、勝坂式土器文化圏で共有されているものです。胴部下半のオオサンショウウオに似たモチーフも勝坂式土器文化圏に時々みられるもので、これもまた頭部が三本指になっています。私たちには何を意味しているかわかりませんが、縄文人がみれば、「ああ、あれね」と、彼らが共有していた「神話」の一シーンであることが了解されるのかもしれません。

 

F

出土遺跡:北野遺跡
時    期:縄文時代中期
土器型式:加曽利E式

 

 モチーフに過度なメッセージを込めることよりも、シンメトリーな様式美を求めた加曽利E式の特徴がよく出ている土器です。S字状文が隆帯によって立体造形されているところに、前代の雰囲気を辛うじて残しています。もはや大きな把手をつくられることもなく、加曽利E式はこの後様式美の追求の道へとひた進みます。

 

G

出土遺跡:丸山A遺跡
時    期:縄文時代中期
土器型式:勝坂式

 

 口縁部に巨大な一つの把手を配し、器形そのもののバランスとユニークさを強調するために、あえて文様をシンプルに抑えているようにも感じられます。胴部下半がやや膨らみ、底部をそろばん玉のようにすぼめるデザインは、この時期以降多用されるものですが、胴部の上下端に交互刺突による隆帯を配することで締まった印象を与えます。地文の撚糸文は緻密に、また楕円区画文や把手内部の文様は透かし彫りのように緻密に描かれた、手練れの作り手によるものといえます。把手の脇には緻密な渦巻状の突起が一組、意味ありげに配されています。

 

H

出土遺跡:原遺跡
時    期:縄文時代中期
土器型式:勝坂式

 

 原遺跡は、勝坂式土器の成立期である狢沢(むじなざわ)式の時期から集落が形成されています。野川流域にはこの時期の集落が点在しており、武蔵野台地で縄文中期的な生業活動を模索し始めていた頃、彼らが野川流域をひとつの拠点としていた可能性があります。 この土器は続く新道(あらみち)式段階のもので、勝坂式土器の基本構成が揃った完成形ともいえます。ところでこの時期の勝坂式土器文化圏の中心地は中部高地と考えられていますが、中部高地で出土する新道式と、この土器は見分けがつかないほど似ています。「本場」の情報がリアルタイムで三鷹にも届く、当時の情報のネットワークがどんなものであったのか、考えさせられる土器です。

 

I

出土遺跡:市立第五中学校遺跡
時    期:縄文時代中期
土器型式:加曽利E式

 

 勝坂式土器の終焉は、東北地方の大木系の影響を帯びた加曾利E式の成立とともに進行します。この土器は加曽利E式の第一段階の後半のもので、勝坂式とは少し違った立体造形が流行しています。加曽利E式では土器に抽象的な文様を使うことが少なくなり、渦巻き文、S字状文、橋状把手など様式化されたモチーフが多用されますが、この土器はモチーフの様式化と立体造形が同時に進行した、この時期ならではの造形が特徴的です。

 

J

出土遺跡:丸山A遺跡
時    期:縄文時代中期
土器型式:加曽利E式

 

 輪積みの痕跡を残し、ゆがんだ器形。表面は縄文の縄目文様を回転施文しただけのシンプルな土器です。口縁部にほんの僅かな突起が配されています。片手に乗るほどの小さな土器ですが、中期のものらしく、分厚い造りでずっしりと重く感じられます。縄文後期には碗形の土器がバリエーションのひとつとして安定的に存在します(その一部はお墓の副葬品として用いられています)が、中期の碗形土器は珍しい存在です。個人使用の土器の萌芽?木製のお碗を模した?…等々ちっぽけな土器からも様々なことが推測されます。

 

K

出土遺跡:井の頭池遺跡群A
時    期:縄文時代後期
土器型式:称名寺式

 

 縄文時代中期の終わりころから、地球規模の寒冷期に移行します。それまで資源として活用していた動物・植物が獲れなくなり、中期的な生業の維持は困難になります。遺跡は激減し(人口は減り)、縄文時代中期にみられた大規模集落は消滅します。その移行期に南関東で使われていたのが称名寺式土器です。加曽利E式の文様の伝統は継続しますが、縄文時代中期の立体的な気風とは大きく異なります。