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速報展 天文台構内遺跡第23次調査

旧石器時代の調査
 天文台構内遺跡は1950年代より、当時まだ数少なかった旧石器時代の遺跡として認知されていましたが、旧石器時代の調査が初めて本格的に実施されたのは1980年の新子午環(しんしごせん)建設工事に伴う本発掘調査です。立川ローム第III層(約14,000年前)から第IX層(約29,000年前)の全ての自然層中から発見された文化層と充実した石器群は貴重な例として注目されました。現在でもさまざまな論文に引用され、比較・検討の対象とされています。

 今回の第23次調査では、対象地約240uと狭いながらも貴重な成果を得ることができました。

 本発掘調査では、ローム層より上位にあたるIIc層の調査中から、黒曜石(こくようせき)製のナイフ形石器など旧石器時代のものと思われる遺物が姿を見せ始め、ローム層に入って途切れることなく石器と礫の出土が続き、立川ローム第IV層上部において出土のピークを迎えました。第IV層上部は、今から約17,000年ほど前にあたる層位で、近隣の旧石器時代遺跡でも遺構や遺物の発見される確率の高い時代です。遺物の分布は発掘調査中の所見とその後の整理調査により、石器は3ヶ所、礫は4ヶ所の特に集中する地点を持つことがわかりました。石器の集中部では、ナイフ形石器・彫器(ちょうき)などの製品の他に、同じ母岩(ぼがん)から剥ぎ取られた剥片(はくへん)、剥ぎ取られた後の石核(せっかく)、途中で石核の形を整えた剥片などが見つかり、また、石器をつくる道具のハンマー台石(だいいし)も一緒に発見されたことから、石器を作っていた場所であったと考えることができます。剥片と石核は直接接合するものも多く、石器つくりの工程を知る上でも大きな成果となりました。

 この集中部で石器を作った石材は、東北地方でとれる硬質頁岩(こうしつけつがん)と箱根産と思われるガラス質黒色安山岩 (こくしょくあんざんがん)が全体の6割を占め、他に相模川でとれる凝灰質頁岩(ぎょうかいしつけつがん)や、利根川の黒色頁岩(こくしょくけつがん)などが使われています。近くの河原で手に入る石材はほんの数点しかなく、特に近隣の遺跡で多用されているチャートは一切使われていません。これがこの石器集中部の大きな特徴です。また、めのう製のナイフ形石器やスクレイパー流紋岩(りゅうもんがん)のナイフ形石器などは製作の痕跡がなく、別の場所で作られてこの場所に持ち込まれたものと考えられます。

 天文台構内遺跡では、現在(2002年末)都道拡幅工事に伴う本発掘調査が行われています。過去の調査をしのぐほどの成果が、日々、調査員たちのスコップの先に展開しているところです。
硬質頁岩接合資料実測図

土葬墓の調査
 現在の国立天文台構内にあたる場所は、1924(大正13)年に天文台が開設されるまでは民間の土地でした。構内を発掘していて開始直後にしばしば出会うのは、市内のほとんどの地区と同様に、耕作土と呼ばれる畑を耕した土の層です。畝や根切り溝も多数発掘され、また畑以外にも、お寺や神社、道路など、さまざまな土地利用がされていたといわれています。

 今回の調査では対象地の西端、国分寺崖線際の約80uの平坦地に、27基の土壙群(どこうぐん)が発見されました。土壙群は、その大部分の土壙から人骨が発見され、その形状や人骨の状態、副葬品の存在などから土葬墓(どそうぼ)であることがわかりました。釘や板材の破片なども伴出しており、棺を使っていたものと思われます。人骨発見時の聞き取り調査と明治年間の公図・土地登記簿から、この土葬墓は、天文台開設以前にこの土地を所有していた旧家の、一族の墓であることがわかりました。

 副葬品は、六道銭(ろくどうせん)香炉(こうろ)や(わん)などの陶器、かんざしめがね数珠玉(じゅずだま)などで、墓標や墓石などは発見されませんでした。かんざしは銅製で砂金石(さきんせき)と呼ばれる石をつけたものもありました。めがねは老眼鏡、数珠玉のうち透き通った黄緑色のものは水晶製と思われます。また、埋葬人骨は発掘調査後、人類学的な鑑定を行い、性別、おおよその死亡年齢、病歴や出産経験などの身体的特徴が明らかになりました。

 墓坑の平面形態は、正方形・円形・長方形・不整形があり、方形のものは軸方位(墓坑の向いている方角)によって4グループに分類されます。この方位は、同時期に作られた墓坑の持つ規則性と見ることができ、ここに墓坑の断面観察による先後関係や、各墓坑の副葬品である六道銭や陶器の作られた年代を総合すると、この土葬墓は18世紀後半以降に作られ始め、19世紀後半くらいまで続いたものと考えることができます。文部省が天文台用地として土地を取得したのは1909(明治42)年のことでした。

「イエ(家)」単位での先祖祭祀が、多摩地区の農村域で成立し、一般化する過程の中で、配列の規則性や形態の変遷を窺うことのできる、たいへん貴重な資料です。
副葬された陶器