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弥生末〜古墳時代初頭のみたか

3世紀前半頃
1 概要
 市域では、縄文晩期以降数百年にわたって、人間の生活の痕跡が希薄です。この間日本列島では、縄文時代に行われていた狩猟・採集を基本とする森林資源を活用した生活システムが、水田耕作を受け入れることによって大きく変換してゆきました。農耕による収穫物は富の集積を促し、人々は小国家への所属を明確にすることとなったようです。三鷹市域が、再び人々の生活の舞台となるのは、3世紀前半の弥生末〜古墳時代初頭頃のことでした。このころ、いくつもの小国家による動乱の続く日本列島は、一方で新しい時代への胎動期でもありました。

2 遺跡と遺物
 仙川流域の滝坂遺跡では、3世紀前半の集落跡が発見されています。現在までに調査された住居跡は5軒のみですが、住居跡の大きさや主軸がバラバラであることから、長期間存続した、大きな集落のごく一部であることが予想されています。
 また、住居跡のほか、作業小屋のような施設2基も見つかっています。住居のほとんどは、上屋の梁(はり)や柱とみられる炭化材が大量に残っており、焼失住居と考えられています。
 集落内には、器台や胴部を穿孔した壷など、儀器(ぎき)とよばれる祭祀(さいし)に使われた土器がセットで出土した住居跡があり、なんらかの祭祀的な役割を担う人間の存在を示すものと考えられ、またこの集落が、そのような役割の存在を受け入れるような大きな集団であることを推定することができます。

 儀器のセット
 SI−6住居跡から出土した儀器は、胴部下半を穿孔した小型壷と、器台で構成されており、この組み合わせは、当時文化の先進地であった、畿内の風習をうかがわせる珍しいものです。このようなセットが東国の集落内で発見されることは少なく、この集落を営んだ集団が、畿内と関係があったものと考えられます。当時は、東国も含めた動乱の世の中であったことが想定されていますが、広範囲な移動の動態を示す資料と考えられます。

SI−6住居跡(滝坂遺跡)



SI−6住居跡一括遺物(滝坂遺跡)